(引き続き、木蓮の友人、クレランさんの寄稿によるものです)
さて、、、、
あら?でもまだ、質問にお答えしていませんでしたね?(∩_∩;)
ここで、ようやっと質問に戻ります。(^-^)
(探してみた仏語のサイトでも答えは見つかりませんでしたので、私の体験からの感想を書きますね。)
パリのカフェは、以上説明しましたようにオーヴェルニュ人が築いたもので間違いありませんが、ちょっと待って下さい。
一般にフランス人が「オーヴェルニュ」という場合、どこを指しているのでしょう?
行政的には○で囲んだところがオーヴェルニュと区画されています。
詳細に拡大して見るとこうなります。
ところが、実際にパリに出稼ぎに出た多くはアヴェロン県の人でもあったのです。
フランス全図で見ると、オーヴェルニュの左下に位置しています。
オーヴェルニュ地方との接点ですね。(右上がオーヴェルニュのカンタル県)。
ここは行政オーヴェルニュよりも南にあり、気候もここより暖かです。
人もずっと開放的(閉鎖的なオーヴェルニュ人とは比べ物にならないくらいです!)。
行政的にはミディ・ピレネー地方に入っていますが、他の地方のフランス人(特にパリジャン)にとっては、大体真ん中辺(おヘソのあたりですね☆)から来た人ということで、アバウトにみな一括りにしてオーヴェルニュ人と呼んでしまうのです。
彼らにしたら、アヴェロンもカンタルも、中央山塊のオーヴェルニュなんですね。
南から見たら、仙台も山形も東北人、北の人から見たら、京都も大阪も関西人と一括りにしてしまうような感覚でしょうか?(いやちょっと違いますね。関東地方の群馬県が東北地方だと思われている感じ、もしくは東海の愛知県が近畿地方だと思われているような感じ…と言ったほうが近いですね。)
はたまた中国も、タイも、日本も、ここでは「中国」になってしまうような感覚かしら。
義母はアヴェロン人ですので、パリに最初に出てカフェをしたのはアヴェロン人だと主張しています。
昔からアヴェロン人は冒険心があり、進取の気性に富んでいたと彼女は言います。
オーヴェルニュ圏から出た人は、オーヴェルニュ人だと主張するでしょう。
地元出身者から見れば、それぞれこだわりもあるでしょうね。
パリには、オーヴェルニュ同盟とアヴェロン同盟が、きちんと存在するようです。Auvergnat de Paris/ L’Aveyron à Paris
(アヴェロン同盟サイトの中でも、自分達のことをオーヴェルニュ人・ブニャという言い方をしています。)
そして実際、オーヴェルニュ人とアヴェロン人との結婚も盛んに行われました。
どちらも郷土意識が強いので、パリで成功したあかつきにも必ず夏のバカンスには地元に帰ってくるのです。
そしてまた同郷人を連れてパリに戻る・・・または同郷人が彼らを頼ってパリにやって来ると面倒を見る・・・。
そうして、首都に一大オーヴェルニュ(アヴェロンを含む)組織が出来上がったわけです。
さてヒントは、このアヴェロンにあると思います。
アヴェロンの人たちは、義父母の故郷がそうなので、何度も行きましたが、夏は家族総出で路上で話しこんでいます!
なにしろ親戚のおばさんたちを見つけるのには、彼女たちの家に行くよりも、路上を探した方が見つかるのです!
「昔は、1人1脚椅子を持って、家の外に出たものよ。そして道端に座って、何時間でも日が沈むまで話して過ごすの。とにかく1人1脚椅子って決まってたわ。なぜかしら、みんなちゃんと自分の椅子を持って外に出てくるのよ。」
と義母が子供の頃の思い出を話してくれました。
この辺りの(行政的)オーヴェルニュだと、田舎でも外で座って話し込んでいる人というのは、そう見ないのですが、アヴェロンでは田舎でも街中でも、本当に沢山の人が外で話しています。
夏の日没は、夜10時ごろですから、遅くまで夕涼みをしながら、家の前で椅子を並べています。
ミディ地方では、家が小さいせいもあるのかもしれませんし、中が暑いのかもしれません(ここオーヴェルニュに比べて暑いことは確かです)。
その辺りの理由はよくわからないのですが、地方のライフスタイルになっていることは、間違いないようです。
彼らが、当時パリに住んだとしたら、同じように自分達の構えた店の前に椅子を並べて同郷の者たちと話し込んだに違いありません。
故郷のこと、異郷の地パリでの暮らし、家族のこと、これからの生計のこと・・・。
パリのカフェのオープンテラスのルーツは、そこから来ているのではないかと思うのですがいかがでしょうか。
もうひとつ考えられるのは、パリでの店舗は家賃も高かったでしょうし、出稼ぎ人が、裏通りに借りられた小さな炭屋兼酒屋のスペースに、客を出来るだけ多く入れようと思ったら、外の空間を利用するしかなかったのではないでしょうか。
こちらの理由は、貧しいゆえに、経済感覚の発達した(別名ケチとも言われている)質素倹約、質実剛健なオーヴェルニュ人的発想ともいえます。
用心深いけれども、律儀な働き者のオーヴェルニュと、新進気鋭で開放的なアヴェロンが入り混じって、相乗効果でパリのカフェを築いていったのは想像に難くない気がします。
余談ですが、この歴史あるパリのカフェ、何代にも渡ってオーヴェルニュ家族に継がれてきたのですが、残念なことに、最近のニュースによるとオーヴェルニュ率が減ってきているのだそうです。
パリのカフェの80パーセントを占めていた彼らが、今では30パーセントになっているとか。
なぜって?
朝から晩まで働くこのハードな仕事を親から継がない若い世代が増えてきて、ついに店の権利を他人に売り渡すケースが増えているのだそうです。
働き者のオーヴェルニュ人の子孫が、ついに!という感じです。
パリのカフェを買い受けて、オーヴェルニュ人に代わって喜んで商売に励む新たな人たち・・・肉体労働を厭わない人たち・・・それはどこの人だと思いますか?
中国人ですって!
パリのカフェやブラッスリーが続々と中国人のオーナーになっているそうです。時代は変わっていくのですね。
いかがでしたか?
彼女のオーヴェルニュ愛は、私以上でして、いつもいろんな話を教えてもらっています。
これから先も、オーヴェルニュの話は、彼女が伝えてくれると思いますので、また楽しみにしていてくださいね!
少しずつ、オーヴェルニュについて、詳しくお話をしていきたいと思います。
2. パリのカフェを作ったのは、オーヴェルニュの人たちとご存知でしたか?vol.1
3. パリのカフェを作ったのは、オーヴェルニュの人たちとご存知でしたか?vol.2 *現在のページ*
4. オーヴェルニュへのアクセス方法
5. オーヴェルニュの観光スポット
6. オーヴェルニュの特産品